江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。
私、篤胤はいう。
はるか西の国の人(エンゲルベルト・ケンプル、ドイツ人の医師 ・博物学者。一六九○年来日、オランダ商館長にしたがい江戸参府し、当時の外国人の日本見聞記の代表作『日本誌』を著す。その付録第6章を抄訳したものが『鎖国論として流布された。以下篤胤がひきあいにする引用はそれによる)が、万国の地理風土を詳しく書いた書物の中に、皇国(日本)のことも書かれてある。
それによると『さまざまな国の中でも、土地が肥えて楽しく暮らせる場所は、北緯三○~四○度の間にほかならない。日本は、まさにそこに位置しており、その上、万国の極東にある。天神(大神)のいかなるご配慮によるのであろうか、この国は特に神の恵みを受けている。
国土の周囲には、潮流が激しく、波さかまく荒海がめぐらせてあり、外国の侵略を防ぐようになっている。
また、国土を列島の形に分断し、大きな島がいくつか合わさった形になっているのは、その地方ごとに作物や特産物ができるようにし、互いにそれを流通せしめ、外国に頼ることなく、国内だけでいろんな産物を自給自足・満足できるよう、はからわれたものである。
さらに、国土の規模が、大きすぎず、小さすぎず造られたのは、国力を充実させて、より凝縮した強さを発揮せしめるためである。
それゆえに、この国は人口がおびただしく、家もにぎやかにたちならび、各地の産物は豊饒をきわめ、ことに稲や穀物(豆・粟・稗・ソバなど)は、万国に卓越してすばらしい。
国民の気性も、勇敢で激烈、強健にして盛んであり、これもまた万国にならぶものがない。これらの特徴はすべて、天地創造の神が、日本に特別の恵みをたれたもうた、たしかな証拠である 。
この西洋人がいう、皇国は神の特別な御恵みを受けているとする説明を、漢土(中 国)がもっともらしくいう『天意・天命』などと同一の概念と思ってはならない。
というのも、西洋人というものは、天地の間の事物を、さまざまな技術や観測方法 を考案して調べ、それにもとづいて考察や推察が及ぶ限りは人知をつくすが、人知のおよばないことについては議論せず、とりあげない。
あらゆるものごとが、神のご意志であることをわきまえており、真実に彼らなりの伝統と古風をとうとぶものである 。だからこそ、漢土のかしこぶった、もっともらしい諸説と同列に論じることはできない。
そもそも、はるか離れた西方の外人ですら、このように皇大御国たる日本の尊貴なるいわれをわきまえている。それなのに、わが国の学問する同輩たちが、自国・日本の尊さの理由と根源を追求しようとしないのは、篤胤、まことに残念で嘆かわしい限りである。
外国のものどもが、あえて日本と親交を結びたがるのは、日本の尊貴なる由来をわ きまえているからで、皇国の大いなる徳にあやかろうとしているのである。諸同輩は 、これらのことをご存じなのだろうか。
皇国の世界における位置は、すべての大地の頂上部にある。その理由は、世界が最初にできるとき、葦の芽(あしかび)のようにとがったもの(うましあしかびひこじの神)の、ちょうど根のところにあるからである。
この葦の芽のようなものによって、まだ天と地がすっかり分離されていなかったころには、大地は、天という枝からぶらさがる果物のようなものだった。
皇国は、この葦芽のようなもので天につながる、大地という果物の『へた』の部分に位置するのだ 。
こういうと、ある人は、こんなことをいいだす。皇国は万国に先立つ大本の国で、 天の枝、地の果物の『へた』にあたるというのは、なるほどと思えるけれど、ここで ある疑いが持ち上がる。
というのは、大本の根源の国にしては、国土が小さく、地の果ての西洋の国々に比べて、物質文明の進歩が遅いのは、どうしてであろうか。大本の国というなら、そう いうことはないはずだと。
私、篤胤が答えよう。
まず、神様が、皇国をさして大きくない国として、お造りになられたのは、かのケ ンプルなどの西洋人が考えたように、神はかりがあるというべきである。ことにいえるのは、国のことに限らず、ものの尊卑善悪は、見かけの大小にはよらないのである。
それは、師匠の本居宣長翁がおっしゃるように、『数丈(一丈=三・三メートル)の大岩も、一寸(三・三センチ)四方の翡翠(ひすい)には及ばず、牛馬も体は大きいが、人間には及ばない。国もおなじであって、どんなに広く大きくとも、悪い国は悪く、逆にどんなに狭く小さくとも、良い国は良い』のである。
たとえば、世界地図を見ると、南の下方に非常に大きな(南極)大陸がある。ほかの大陸全部をあわせて、三で割ったほどの広大さだが、そこには人も住まなければ、 草木も生えない。
もし国土の面積の大きさをもって、国の善し悪しをいうのなら、さしずめ南極大陸は、よい国ということになろう。
また、西洋諸国よりも物質文明の開けが遅いというのも、皇国の国民は性質がおお らかで、こざかしく物を考えたり、理屈をあげつらったりしないからなのであって、 単に遅れていると思うのは、思慮が足りないいいぐさである。
つまり、皇国は万国の元祖・大本の国で、果物の実でたとえれば、『へた』の部分に当たる。『へた』の部分には、とくに『ものをゆっくり確実に成長させる大地の気』が厚く集まっているために、成長の仕方はゆっくりでおおらかである。
それで皇国の民も小知恵を働かせたり、さかしい性質をもったりしないのである。
たとえば、メロンや桃の実も、その実がだんだんと大きくなるのは、『へた』から 実の先端に向かって成長してゆく。
ところが、実が育ちきって、熟するときには、先端の方から、まず熟しはじめ、『へた』の部分は、後になって熟するものである。 これは、『へた』の部分が、実の成長の原点であり、成長させようとする力の勢いが強く、最後まで残存するからである。
こういうことは、すべてに言えることで、たとえば天地の間のことでも、朝日が最初に東に見えるときは、さして日光の暖かさを感じたりはしないが、だんだん太陽がのぼって西へ西へと移動するごとに、日差しの熱さを感じるようになる。
これは、東に起こった朝日が、西に移動するうちに変化するからである。こういうことは、天地の間の理というものを、よく観察研究し、きわめたのちに、 はっきりとわかることである 。
また、鳥獣というものは、生まれ落ちるとすぐに、自分から餌を食べ、二~三カ月 もすれば、もう交尾などはじめるが、これは卑しいものだからである。
それに比べて人間は、食べることも、立つことも、非常におそいのであるが、やがては成長して鳥獣より尊いものとなる。さらに、鳥獣は、人間に比べて寿命がきわめて短い。
その理由もまた、人間より早く成長し、交尾し、老化して、早く死ぬという一生の速度のはやさにあるのだろう。
諸外国の文物が、早く悪く、さかしい形で発展してきたのも、皇国の文物が、長い 間、太古の神代のままにおおらかであるのも、以上のことに、なぞらえて理解できる 。 漢土の書物にも『大器は晩成す』という言葉があるが、まさにこのことを語っているのである。
さて、諸外国では、昔からさかしく物を考え、さまざまな文物を編み出してきたのである。
皇国は、今なおおおらかで、強いてさかしくはして来なかったのであるが、 今いった外国人どもが、油汗ながして、血のにじむ思いで必死に考えだしたことを、 彼らはありあまるほど貢いでくれるので、皇国の役に立つことが多いのである。
このことを思うに、高枕で腕組みした主君に、人民が腿まで泥につかり、肘まで水 に濡れながらつくった作物を、捧げたてまつる様に似ている。
これも、人知でははかりしれない、神秘きわまりない、神々の大いなるご意志が、そのように尊いものと卑しいものを、定めたもうたということである。
それなのに、外国のことを学ぶものたちは、以上のような由来を知りもせず、外来 の文物が皇国の役にたつのを見て、貧弱な肩をそびやかし、声高・鼻高にほこってい る。かたはら痛いことである。 そういう姿勢は、儒学者のみならず、最近起こってきた蘭学なる学問を学ぶものたちに、ことに当てはまることであり、大変にいとわしいことである 。