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Tuesday, October 4, 2016

国学者 平田篤胤から見た日本 (Japan viewed by the scholar's Atsutane Hirata)

江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。


 私、篤胤はいう。 

はるか西の国の人(エンゲルベルト・ケンプル、ドイツ人の医師 ・博物学者。一六九○年来日、オランダ商館長にしたがい江戸参府し、当時の外国人の日本見聞記の代表作『日本誌』を著す。その付録第6章を抄訳したものが『鎖国論として流布された。以下篤胤がひきあいにする引用はそれによる)が、万国の地理風土を詳しく書いた書物の中に、皇国(日本)のことも書かれてある。 それによると『さまざまな国の中でも、土地が肥えて楽しく暮らせる場所は、北緯三○~四○度の間にほかならない。日本は、まさにそこに位置しており、その上、万国の極東にある。天神(大神)のいかなるご配慮によるのであろうか、この国は特に神の恵みを受けている。 国土の周囲には、潮流が激しく、波さかまく荒海がめぐらせてあり、外国の侵略を防ぐようになっている。 また、国土を列島の形に分断し、大きな島がいくつか合わさった形になっているのは、その地方ごとに作物や特産物ができるようにし、互いにそれを流通せしめ、外国に頼ることなく、国内だけでいろんな産物を自給自足・満足できるよう、はからわれたものである。 さらに、国土の規模が、大きすぎず、小さすぎず造られたのは、国力を充実させて、より凝縮した強さを発揮せしめるためである。 それゆえに、この国は人口がおびただしく、家もにぎやかにたちならび、各地の産物は豊饒をきわめ、ことに稲や穀物(豆・粟・稗・ソバなど)は、万国に卓越してすばらしい。

国民の気性も、勇敢で激烈、強健にして盛んであり、これもまた万国にならぶものがない。これらの特徴はすべて、天地創造の神が、日本に特別の恵みをたれたもうた、たしかな証拠である 。 この西洋人がいう、皇国は神の特別な御恵みを受けているとする説明を、漢土(中 国)がもっともらしくいう『天意・天命』などと同一の概念と思ってはならない。 というのも、西洋人というものは、天地の間の事物を、さまざまな技術や観測方法 を考案して調べ、それにもとづいて考察や推察が及ぶ限りは人知をつくすが、人知のおよばないことについては議論せず、とりあげない。 あらゆるものごとが、神のご意志であることをわきまえており、真実に彼らなりの伝統と古風をとうとぶものである 。だからこそ、漢土のかしこぶった、もっともらしい諸説と同列に論じることはできない。 そもそも、はるか離れた西方の外人ですら、このように皇大御国たる日本の尊貴なるいわれをわきまえている。それなのに、わが国の学問する同輩たちが、自国・日本の尊さの理由と根源を追求しようとしないのは、篤胤、まことに残念で嘆かわしい限りである。 外国のものどもが、あえて日本と親交を結びたがるのは、日本の尊貴なる由来をわ きまえているからで、皇国の大いなる徳にあやかろうとしているのである。諸同輩は 、これらのことをご存じなのだろうか。 皇国の世界における位置は、すべての大地の頂上部にある。その理由は、世界が最初にできるとき、葦の芽(あしかび)のようにとがったもの(うましあしかびひこじの神)の、ちょうど根のところにあるからである。 この葦の芽のようなものによって、まだ天と地がすっかり分離されていなかったころには、大地は、天という枝からぶらさがる果物のようなものだった。

皇国は、この葦芽のようなもので天につながる、大地という果物の『へた』の部分に位置するのだ 。 こういうと、ある人は、こんなことをいいだす。皇国は万国に先立つ大本の国で、 天の枝、地の果物の『へた』にあたるというのは、なるほどと思えるけれど、ここで ある疑いが持ち上がる。 というのは、大本の根源の国にしては、国土が小さく、地の果ての西洋の国々に比べて、物質文明の進歩が遅いのは、どうしてであろうか。大本の国というなら、そう いうことはないはずだと。 私、篤胤が答えよう。 まず、神様が、皇国をさして大きくない国として、お造りになられたのは、かのケ ンプルなどの西洋人が考えたように、神はかりがあるというべきである。ことにいえるのは、国のことに限らず、ものの尊卑善悪は、見かけの大小にはよらないのである。 それは、師匠の本居宣長翁がおっしゃるように、『数丈(一丈=三・三メートル)の大岩も、一寸(三・三センチ)四方の翡翠(ひすい)には及ばず、牛馬も体は大きいが、人間には及ばない。国もおなじであって、どんなに広く大きくとも、悪い国は悪く、逆にどんなに狭く小さくとも、良い国は良い』のである。 たとえば、世界地図を見ると、南の下方に非常に大きな(南極)大陸がある。ほかの大陸全部をあわせて、三で割ったほどの広大さだが、そこには人も住まなければ、 草木も生えない。 もし国土の面積の大きさをもって、国の善し悪しをいうのなら、さしずめ南極大陸は、よい国ということになろう。 また、西洋諸国よりも物質文明の開けが遅いというのも、皇国の国民は性質がおお らかで、こざかしく物を考えたり、理屈をあげつらったりしないからなのであって、 単に遅れていると思うのは、思慮が足りないいいぐさである。 

つまり、皇国は万国の元祖・大本の国で、果物の実でたとえれば、『へた』の部分に当たる。『へた』の部分には、とくに『ものをゆっくり確実に成長させる大地の気』が厚く集まっているために、成長の仕方はゆっくりでおおらかである。 それで皇国の民も小知恵を働かせたり、さかしい性質をもったりしないのである。 たとえば、メロンや桃の実も、その実がだんだんと大きくなるのは、『へた』から 実の先端に向かって成長してゆく。 ところが、実が育ちきって、熟するときには、先端の方から、まず熟しはじめ、『へた』の部分は、後になって熟するものである。 これは、『へた』の部分が、実の成長の原点であり、成長させようとする力の勢いが強く、最後まで残存するからである。 こういうことは、すべてに言えることで、たとえば天地の間のことでも、朝日が最初に東に見えるときは、さして日光の暖かさを感じたりはしないが、だんだん太陽がのぼって西へ西へと移動するごとに、日差しの熱さを感じるようになる。 これは、東に起こった朝日が、西に移動するうちに変化するからである。こういうことは、天地の間の理というものを、よく観察研究し、きわめたのちに、 はっきりとわかることである 。 

また、鳥獣というものは、生まれ落ちるとすぐに、自分から餌を食べ、二~三カ月 もすれば、もう交尾などはじめるが、これは卑しいものだからである。 それに比べて人間は、食べることも、立つことも、非常におそいのであるが、やがては成長して鳥獣より尊いものとなる。さらに、鳥獣は、人間に比べて寿命がきわめて短い。 その理由もまた、人間より早く成長し、交尾し、老化して、早く死ぬという一生の速度のはやさにあるのだろう。 諸外国の文物が、早く悪く、さかしい形で発展してきたのも、皇国の文物が、長い 間、太古の神代のままにおおらかであるのも、以上のことに、なぞらえて理解できる 。 漢土の書物にも『大器は晩成す』という言葉があるが、まさにこのことを語っているのである。 さて、諸外国では、昔からさかしく物を考え、さまざまな文物を編み出してきたのである。 皇国は、今なおおおらかで、強いてさかしくはして来なかったのであるが、 今いった外国人どもが、油汗ながして、血のにじむ思いで必死に考えだしたことを、 彼らはありあまるほど貢いでくれるので、皇国の役に立つことが多いのである。 このことを思うに、高枕で腕組みした主君に、人民が腿まで泥につかり、肘まで水 に濡れながらつくった作物を、捧げたてまつる様に似ている。 これも、人知でははかりしれない、神秘きわまりない、神々の大いなるご意志が、そのように尊いものと卑しいものを、定めたもうたということである。 

それなのに、外国のことを学ぶものたちは、以上のような由来を知りもせず、外来 の文物が皇国の役にたつのを見て、貧弱な肩をそびやかし、声高・鼻高にほこってい る。かたはら痛いことである。 そういう姿勢は、儒学者のみならず、最近起こってきた蘭学なる学問を学ぶものたちに、ことに当てはまることであり、大変にいとわしいことである 。 

Sunday, April 17, 2016

東郷平八郎元帥とニミッツ元帥

アジアの各地が白人たちの植民地として支配されていた19世紀、わが国日本は明治維新を成し遂げました。 国家の独立を守り、近代国家をつくりあげたのです。 その間には日露戦争という日本国の存亡を賭けた戦いがありました。


日露戦争における日本の勝利は、白人には絶対にかなわないという常識を覆す出来事であり、アジアの各国に勇気を与えました。その日露戦争の勝利を決定的にしたのが日本海海戦です。 この海戦で活躍したのが海軍大将の東郷平八郎でした。 ひとつ間違えると日本はロシアの植民地になりえる戦いでした。 かなわないと言われた大国ロシアと堂々と渡り合って勝利した英雄の東郷平八郎元帥。 明治38年、ロシアは日本海軍に対抗するため海軍を東洋に回航させました。 その進路によっては戦いが全く変わりきます。

東郷はロシア艦隊が対馬海峡に現われると確信していました。 5月27日、38隻のバルチック艦隊は東郷の予感通り対馬海峡に現われました。 いよいよ戦いが始まろうとする時、東郷連合艦隊司令長官は 「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」 とZ旗信号を旗艦三笠に掲げました。 東郷はロシア艦隊を取り逃がすことはできません。 それは逃がした艦船に日本本土が砲撃されると、日本には防ぎようがなく敗戦は必至だからです。 ここで撃ち勝つしかありません。 東郷は丁字戦法という捨て身の戦法でロシア艦隊を驚嘆・狼狽させました。 折りから風は強く波の高い日本海でした。 この気象条件は日本に幸いしました。


日本は砲力で劣っていて、ロシアの船体に沈没させるほどの穴を開けなくても、波による浸水で被害をもたらすことができたからです。 砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、東郷は艦橋に立って微動だにせず指揮を執り続けました。 日本海軍はロシア艦隊19隻を打ち沈め、5隻を捕獲し、司令長官を捕虜としました。 しかし日本海軍は1隻も失うことがありませんでした。 これほど完璧なる海戦は世界の海戦史上ありません。 このニュースは瞬く間に世界に伝わりました。 東郷は世界の英雄と賞賛されました。 トルコやフィンランドなど多くの国の教科書に彼の英雄振りが記載されています。

東郷は誠実で私利私欲のない人でした。 戦争終了後、東郷の息子を文部大臣にしようという声が出ました。 東郷ほどの名声であればそれも可能でした。 しかし東郷は 「人間には器がある。器で生きてこそ幸せだ」 と言ってその申し出を固辞し、息子を湘南の図書館長にしたといいます。 時は移り第2次大戦で米国の太平洋艦隊司令長官のニミッツ提督。 この提督に日本海軍は敗れました。 このニミッツ提督が師と仰いでいたのは東郷平八郎元帥でした。


日露戦争の直後、士官候補生だったニミッツは、米国軍艦にて日本を訪れ、明治天皇の賜宴に出席し、東郷と言葉を交わしました。 ニミッツは大戦後に次のように語りました。 「私は海軍士官候補生の時、私の前を通った偉大な提督東郷の姿を見て全身が震えるほど興奮をおぼえました。 そして、いつの日かあのような偉大な提督になりたいと思ったのです。 東郷は私の師です。 あのマリアナ海戦の時、私は対馬で待ちうけていた東郷のことを思いながら、小沢治三郎中将の艦隊を待ちうけていました。 そして私は勝ったのです。

東郷が編み出した戦法で日本の艦隊を破ったのです」 戦後、ニミッツは日露戦争で東郷が乗艦した戦艦・三笠が、荒れ放題になっていることを聞き深く心を痛めました。 三笠は日本の運命を救った船として永久に記念すべく、大正15年以来、横須賀に保存されていました。 ところが第2次大戦後には東郷元帥までが軍国日本の悪しき象徴とされました。 そして東郷元帥の乗艦した三笠は見るも無惨な扱いを受けたのです。


大砲、鑑橋、煙突、マスト等は取り除かれ、丸裸になってしまいました。 艦内では米兵相手の営業が行われ、 東郷のいた司令長官室は「キャバレー・トーゴー」に変わり果てました。 敗れた日本人は魂を失い、勝った米国人は奢りに陥っていました。 ニミッツは嘆き悲しみました。 彼は米国海軍に働きかけて資金をつくり、これを三笠の復元費として日本側に寄贈しました。

 また日本国内にも反省が起こり、 昭和35年にようやく三笠は復元されました。 その際、ニミッツは彼の写真と共に次の言葉を送りました。 「貴国の最も偉大なる海軍軍人東郷元帥の旗艦、有名な三笠を復元するために協力された愛国的日本人のすべての方へ、最善の好意をもってこれを贈ります。
           

東郷元帥の大崇拝者たる弟子 米国海軍元帥 C・W・ ニミッ 


大戦の際、東郷元帥をまつる東郷神社は、戦災で焼失しました。 昭和39年、ニミッツは東郷神社が再建されることを聞くと、自分の写真と共に祝賀のメッセージを寄せて喜びを表しました。 「日本の皆様、私は最も偉大な海軍軍人である東郷平八郎元帥の霊に敬意を捧げます」 ニミッツの死後、昭和51年、アメリカでは英雄ニミッツの功績を記念して「ニミッツ・センター」の設立が計画されました。


その時センターのハーバード理事長は 「ニミッツ元帥は東郷元帥を生涯心の師として崇拝してきました。 東郷なくしてニミッツを語ることはできないと信じますので、本センターは是非、東郷元帥の顕彰も併せ行いたいと思います。 また東郷のような偉大な人物を育てた日本の文化資料も展示し、 日本の姿も知らせたいと思います」 と協力を要請してきました。

日本側は喜んでこれに応じました。 そして資料のほか平和庭園と名付けた日本庭園を贈りました。 こうしてニミッツセンターは日米を代表する英雄を記念する施設となったのです。 さくらの花びらより

Thursday, October 1, 2015

インドネシア : ジョヨボヨ王の予言日本軍が救いにくます。


土民は皇軍を心から迎へた。空にはHIDOEP ASIA RAJA(アジア萬歳)のアドバルーンが悠々と浮かんでゐた空は涯しなくひろかつた。大航海時代から数世紀にわたるオランダの植民地支配下では、現地の非オランダ系住民はほとんど無権利状態に置かれ、奴隷同然の扱いを受けていました。そうした中で、彼らの間には、かつてジャワ島東部を支配していたクディリ王国のジャヤバヤ王(ジョヨボヨ王とも。在位1135-57年)が、晩年、詩人のムプ=セダーとムプ=パヌルに命じて書かせた叙事詩『バラッダユダ』の次のような“予言”を心のよりどころとする人も少なくありませんでした。

インドネシアには「ジョヨボヨ王の予言」という伝承がある。 

12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が宮廷詩人に命じて書き残したもので、インドネシアを苦しめる“白い人びと”を、北からやってきた“黄色い人びと”が追い出してくれるという「予言」です。「我が王国は、どこからか現れる白い人びとに何百年も支配されるだろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。しかしやがて、北の方から黄色い人びとが攻めてきて、白い人びとを追い出してくれる。黄色い人びとは我が王国を支配するが、それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく…」この「予言」はオランダ植民地時代に民衆の間に広まり、深く信じられるようになった。 

17世紀初頭から続く“白い人びと”の支配に苦しめられていた民衆は、解放者の出現を待ち望んでいたのだ。一部で独立を求める運動も起きたが、オランダはこれを厳しく弾圧、インドネシア人の集会を禁止し、道ばたで3人以上が話しただけで処罰するほどだった。このオランダの支配を打ち破ったのが、北からやってきた“黄色い人びと”、すなわち日本軍だった。

オランダ 330年植民地支配 

1602年、インドネシアのジャワに東インド会社を設立した。オランダはそこに貿易、軍事、外交、行政の独立件を与え、諸外国と戦争して積極的にアジアへ進出を開始しました。オランダはタダ同然で安く手に入れた香料をジャワ島やモルッカ諸島からアムステルダムに運び、莫大な利益をあげました。オランダは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々に奪い取り、17世紀中ごろには、現在のインドネシアを中心とした地域に確固たる拠点を築きました。 これ以降、330年もの長期にわたって、オランダのインドネシア植民地支配が続きます。オランダの統治方法はまったくひどいものだった。

原住民には教育を行なず、読み書きができないように放置するという愚民政策をとりました。徹底した分断政策はオランダ支配の特徴で、集会や団体行動を禁止した。320の各部族語を一つの標準語に統一することを許さず、インドネシア人としての民族意識を奪い、原住民はプランテーションの奴隷としてこき使われました。 オランダは支配したインドネシアの土地で稲作を営む住民にコーヒー、サトウキビ、藍、茶、肉桂などを強制的に栽培させた。その結果、食糧を自給できなくなった住民に、オランダは食料を高く売りつけることで借金を負わせ、なけなしの財産・土地まで巻き上げていきました。

その搾取の仕方は19世紀に入ってからますます巧妙となり、インドネシアからの収益は実にオランダの国家予算の三分の一を占めるようになったのです。このオランダの「強制栽培制度」によって、インドネシアは大飢饉となり、人口の9割が餓死したといわれます。 巧妙だったのは自分たちは表にたたず間接統治を行ったことである。統治は地元の代表である土候に、流通は華僑(現地の支那人)にやらせます。搾取によるインドネシア人の憎悪は華僑や土候に向けさせ、自分達はおいしい汁だけをたっぷりと吸ったわけだ。しかも表向きは東インド会社という会社組織で、国家は前面に出ないという用心深さでした。

また、オランダは混血政策を取り、インドネシア人との混血児を中間階級にし、民族の分断を図った。これはポルトガルが東ティモールで、スペインが中南米でやったのと同じ手口である。混血児といっても白人の女が現地の男と結婚して子供を生むなどということは一切なく、白人の男が現地の女を強姦するというパターンだけでした。 この政策の裏には白人の傲慢と人種差別があったのは言うまでもありません。劣等民族であるお前らに、我々が種を授けてやる、という思い上がりだった。こうしたハーフカースト(白人とアジア人の混血児)は、教育を施され、宗主国のために原住民を監督、酷使する役割を与えられます。

ンドネシア人はオランダ人に家畜よりひどい存在として扱われていた。 スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録されている。ある農場では「粗相をした二人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部に唐辛子粉をすりこんで木の杭に縛りつけて見せしめにした」といいます。また、刑務所で過酷な労役を課せられている因人が、オランダ人の農場より食べ物がいいからと出所を拒んだといった例も伝えられている。このオランダによる恐るべき搾取にピリオドを打ったのは1941年の大東亜戦争である。 

日本の帝国の占領。

1942年3月1日、ジャワ島に上陸した今村均中将率いる第16軍は、僅か9日間でオランダ軍を制圧、“白い人びと”を追い出してくれたのである。インドネシア民衆は「ジョヨボヨ王の予言が実現した」と歓喜し、各地でメラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)を振って日本軍を迎え入れた。その後、仁将として名高い今村中将による軍政統治が行われるが、それは、“白い人びと”の支配とは明らかに異なっていた。 

日本軍はまず、流刑されていたスカルノやハッタら独立運動の指導者を解放し、迫害されていたイスラム教の存在を認めて宗教活動を自由とした。オランダによる愚民政策を廃し、民衆の教育制度を充実し、農業指導や軍事指導にも努めた。それまで公用語として強制されていたオランダ語と英語を廃し、多くの言語に分かれていたインドネシアに共通語を定めて、民衆の意思統一を図ることにも力を入れた。

そして1945年8月15日、三年半にわたる“黄色い人びと”の支配は終わった。800年前にジョヨボヨ王が予言した通り、トウモロコシが育つまでと同じくらいの短い期間だった。  

Sunday, September 27, 2015

犠牲祭 (Sacrifice)


私たちに与えられた無数の恵みに対し、私たちはアッラーに感謝する責務を負っています。この責務を果たし、精神的にアッラーに近づき、アッラーの愛情を得る為に私たちが行なう一つが、犠牲を屠ることです。 ここでの犠牲とは、一定の動物をイード(大祭)の日にアッラーのご満悦を得るために屠ること、あるいは代理人をたてて屠らせることによって実現される崇拝行為です。

犠牲を屠ることは崇拝行為の1つなのです。アッラーの命令に頭を下げて従い、財産をアッラーのご満悦を得る為に捧げることなのです。この崇拝行為は、アッラーへの愛情をあらゆる愛着よりも優先させ、真実の道において献身することができることを示すものなのです。 犠牲を屠る、あるいは代理人を立てて屠らせる信者は、「あなたの主に礼拝し、犠牲を捧げなさい。」(潤沢章第2節)という命令を実行し、アッラーへの服従を示し、しもべとしての意識を新たにし、預言者ムハンマのスンナに従ったことになるのです。

預言者ムハンマドは「犠牲として屠られた動物の毛の一本ずつに10の善行が与えられる。」「犠牲として捧げた動物は、最後の審判の日に角と毛と共にあなたのところに来る。屠られた動物は、その血が地に落ちる前にアッラーの位階に達する」と命じられ、犠牲とされた動物の肉の善行の豊かさとその重要性を明らかにしておられるのです。 親愛なるムスリムの皆様。 犠牲を捧げるという崇拝行為の本質は、人の意思と誠実さです。このことを高めるアッラーは「それらの肉も血も、決してアッラーに達する訳ではない。かれに届くのはあなたがたの篤信〔タクワー〕である。」(巡礼章第37節)という言っています。

犠牲を屠ることは、アッラーの愛情を獲得し、自我を防ぎ、しもべとしての意識をもつ、という最も好ましく価値のある崇拝行為です。 そのことについて預言者ムハンマドは、「人はイード・ル・アドハ(犠牲祭)の日にアッラーの為に犠牲を屠ること以上に好ましいことを行うことはない」とおっしゃられています。 犠牲として屠った動物の肉を家族と共に食べ、神の恵みの恩恵を受けることができるのと同様に、客に振舞ったり貧しい人にわけたりすることで彼らともイードの喜びを分かち合うことができます。そして人々への慈しみ、いたわり、敬意を真の意味で実践することになるのです。 

親愛なるムスリムの皆様。特に日本で、犠牲を屠るという崇拝行為を直接実践することは困難でです。従っていくつかの組織が代理をたてて犠牲を屠る活動を行っています。イスラームに定められたとおりに屠られた動物の肉は、必要としている人々へと届けられます。 

アッラーに近づくことを希望している私たちも、犠牲を屠る崇拝行為を実践しましょう。また、アラファの日(犠牲祭の前日にあたる)の朝の礼拝から始まり、イードの四日めのアスルの礼拝まで続くタシュリーク・タクビールを義務の礼拝の際に行なうことを忘れないようにしましょう。

東京ジャーミイでイード犠牲祭の祈り。












Thursday, August 27, 2015

Yasukuni Shrine : The Controversial Memorial

A day at Yasukuni Shrine, on its grounds and at the accompanying military museum offers a surprisingly in-depth perspective to both the ceremonial beauty of Japan and the former imperial aggression of a now peaceful nation. As at other Shinto shrines, visitors to Yasukuni walk beneath Torii gates, cleanse their hands and mouths at a water basin, and enter through massive wooden doors; but unlike at other holy places, the spirits of convicted Class A war criminals burden the historic downtown Tokyo shrine with a church-state controversy. There are almost 2.5 million names on the official Yasukuni registry, all representing those who were granted ceremonial entrance to the shrine for fulfilling one main requirement: They gave their life protecting the Japan homeland in service of the emperor.


The sensitivities involved, perhaps most notably for those of Chinese and Korean descent, include the 1978 decision to enshrine convicted war criminals and the presence of foreign nationals conscripted into service of the Japan Imperial military during its WWII-era expansion. When a dignitary or Japanese prime minister pays respects at Yasukuni Shrine, or “Peaceful Nation Shrine,” the lines of church-state separation become blurred and regional media coverage can cause outrage, not entirely unlike the seemingly never-ending territorial waters disputes. When an ordinary Japanese citizen approaches the shrine, throws in their coin offering, claps twice and bows in prayer, the moment looks as typical as what occurs at any other shrine on the islands.

History and political context, however, are not prerequisites for visiting, and in fact, there is much more to enjoy. Down the pebble path that runs the perimeter of the shrine, concealed by dense woods and behind the only steel fence on the grounds lies another shrine dedicated to other nations’ battle fallen, including Americans. The lesser-known Chinreisha consists of two spirit-pacifying shrines no larger than a playhouse — one dedicated to the fallen who fought against Japan’s Imperial Army during civil wars and the other for American, British, Chinese, Korean and Southeast Asian war dead from the Pacific War. As the same path rounds the back side of the always-concealed main shrine, visitors come upon Shinchi Teien, or Sacred Pond Garden, and its abundance of resting benches and hungry koi fish.

Finally, visitors on the path will reach the original Yushukan museum, built in 1882, and then likely notice the Mitsubishi Zero fighter plane inside the glass facade of its attached 2002 renovation. The large museum is dedicated to Japan’s military history, from the samurai era through the Meiji Restoration and ultimately to its defeat in WWII. Some of the walls in the museum are lined, top to bottom, with identically sized mini black-and-white photos of departed warriors, and it is important to note the Yushukan has received some controversy of its own for unabashedly portraying its history from the perspective of the Japanese military.

A visitor who closely reads the English explanations accompanying most of the exhibits could still easily miss the four-sentence description of the “Nanking Incident” of 1937, and certainly won’t read the words “rape” or “massacre.” English-reading history buffs will also likely dispute that the U.S. oil embargo against Japan “triggered” U.S. involvement in the Pacific campaign, but that is not to say all the text is inaccurate or misleading, just presented from a specific Japanese perspective. Newspaper front pages show overhead photographs capturing the attack on Pearl Harbor, letters from soldiers at Midway or Guadalcanal home to parents mark the turning point in the war, and an infographic shows that 28  million Japanese citizens were ready to volunteer for a national corps if needed to defend the homeland.

After two floors of dates, photos, paintings and model battleships, visitors are welcomed to the final, largest exhibit by coming face to face with an actual miniature submarine and a suspended glider, both designed for use on suicide missions. In addition to the human torpedo and glider, the naturally lighted hall holds anti-aircraft guns, both small and massive, a medium classification tank and a Suisei bomber, all of which were used in war. Unfortunately, no photographs are allowed inside the museum, which costs 800 yen to enter, or about $10. As far as this visitor could tell, though, inside Yushukan was the only place where photography was restricted.

From the grand walkway entrance lined with 8-foot-tall stone lanterns and even taller trees to the steps of the main hall, with its curtains partially opened to show the Yasukuni Shrine behind, good vantages for scrapbooks or Instagram accounts are plentiful. The history of the shrine, dating to 1869, and the more contemporary political controversy are also free for interpretation, as some foreign visitors are inclined to do. Even Japanese are at odds whether elected leaders should pay homage to the war shrine or if certain criminals should be removed, but as Professor John Breen writes in the book “Yasukuni, the War Dead and the Struggle for Japan’s Past,” Yasukuni priests insist that once a spirit is enshrined it can never be dislodged. favoured analogy is that of the candle and its flame: ‘You can transfer the flame of one candle to another, but the original candle continues to burn.’

By: Toshio Suzuki

Sunday, August 9, 2015

関東花火夏2015年 (Summer Hanabi in Kanto Region 2015)

日本の花火大会 は、9 月まで 7 月に日本で開催される毎年恒例の花火大会です。世界の他の部分での花火大会とは異なり日本花火大会花火ライバルのグループ間の激しい競争であることの日本の伝統に従います。各グループにしようとするとアウトを行う文字ドラえもん、ピカチュウ、または他のキャラクターとして成形形状、パターン、異なる色でだけでなく複雑な最後のそして、結果は信じられないほど多彩な花火。





江戸時代に開催のお祝いの復活があり、100 万司祭の近くに毎年引き付けます。全国の他の多くのサイトで、同じ時期に同様のイベントを開催します。

荒川花火 





足立の花火大会は、花火大会の東京では間違いなく、それは平均 570,000 人で描画します。足立はまだ、オフに設定以上 12,000 の花火で、巨大なイベント、東京都心部の外側の縞の荒川のほとりにその場所のため広い表示領域と川の北側から見るし、群集の最悪の事態を避けるために機会を可能します。

横浜花火 






2 回横浜で花火してきた。我々 は簡単にイベントの前に時間、場所を見つけることができる人々 の小さなグループだったときから最初に、ベイエリアの近くだった。2 回目は日本人の友達と一緒に駐車場で以来、我々 は他のオプションがなかったのでちょうど 1 時間前に到着したが、マット ・すべてピクニックに行くつもりだった。横浜の花火は、近くにいるなら本当にきれいです。あなたは遠く、いくつかの退屈な瞬間がありますが、友達とピクニックになら、それは問題ではないです。「寒さ」とピクニックの本当に完璧な気がします。

隅田川花火 






非常に多くの人々 にアクセスできるため、これはおそらく東京で最も人気のある花火の表示の 1 つは。そしてそれはあまりにも混雑して、桜の名所も点在に会うために一生懸命だから、それは本当に私のお気に入りではありません!場合は、スポットを正常に撮影した、つまり、花火の前に時間、それはおそらくたくさんの楽しみです。私のグループは我々 取得できませんでしたが早期に十分な花火を見に隅田公園に絞りを試してみました。私は完全にそれに慣れて星地雷ばかりだったが、それは素晴らしかった。私は、これは適切なピクニック マット、おいしい料理、良い会社と良さと思います!

江戸川区花火 





これはおそらく、東京 23 区で今まで見た最高の花火!花火の数だけでなく花火をオフに設定の種類です。花火の専門家ではないが、通常スターは別としてそう多くの美しいクラッカーが地雷だった。さらに、それは音楽と同期だった。どのくらい長くこの 1 つは、1 時間以上も見てください。その他の花火大会とは異なり表示のみがある見事なフィナーレが、花火開始時に退屈なこれ完全にチャートされたオフ!ちょうど 1 つの花火に行き、それは、江戸川花火をなければなりません。

東京湾花火 






友達とお台場ビーチの海岸沿いに東京湾の花火を見た。人々 は、湾の反対側にスポットの実際の視聴に行く傾向がある、ので、お台場に人が幸いなことに少ないがあった!私の部分に多くの努力なしとにかく、お台場辺り行く日を計画しているため私たち必要はなかった急いでまたはスポットを得るに殺到します。あなたの心、それは非常に人気のある花火です。背景のレインボー ブリッジと東京タワーを見るので、海が、さまざまな経験からに花火が打ち上げの 1 つ横浜に似ています。この 1 つは、同様の音楽を持って!

謝辞

夏の間に日本の場合、必ずキャッチして東京の花火祭りの少なくとも 1 つ。彼らが、7 月と 8 月は、たくさんのお祭りに参加する機会を与える必要がありますを通して、様々 な回はで開催されます。通常、約 1 時間半に 1 時間最後花火を示しています。時間のこのスパンで花火夜空に心形に設計に精通している漫画のキャラクターにインスパイアされたデザインに至るまでを備えた驚異的なショーを目撃します。多くの映画祭で拾うことができますいくつかの焼きそばやその他の人気のお祭り料理の屋台が備わっています。さらに思い出に残る経験が希望の場合クルーズ船、屋形船ボートやヘリコプターでスポットを予約でき、スタイルのショーをお楽しみください。

いくつかの訪問を検討している場合に留意すべき事があります。最初に、すべての場所は混雑しているだろう注意してください。ショーの間に座っている場所を検索したい場合は、以前のスポットを保存する日に到着することを検討してください。ショーを見るために通りの上に立っては厳しく禁止されているに注意してください。あなたと一緒に子供をもたらすことが、離ればなれになって混雑しやすいようにそれらの目を保つようにします。 v(^_^)v

Thursday, August 6, 2015

広島 : 平和の新しい世界。(Hiroshima: The Born Of Peace)

広島は本当に美しい場所です。破壊から再構築を訪問する私のお気に入りの場所だった。 



戦争では、勝者がないです。第二次世界大戦では、日本はいくつかの国で多くの人々 しかし、アメリカも空爆で任意の武器を持っていなかった多くの日本市民を殺したの被害を受けた。欧州では、東南アジアの国々 を植民地化。違いは何ですか。私たちのすべては、その時点で大きな過ちを犯した。決してその原子爆弾世界大戦終了と考えています。



私たちの気持ちは、誰かは全く異なるかもしれない。したがって、私たちは決して過去の戦争についての反射で再び戦争にステップします。平和な世界を構築に貢献できると考えています。 荒廃がひどかった、記念碑を訪問している間私の心を壊した。戦争の両側に多くの命が失われました。しかし、日本との人々 にはそのような再び苦しむ必要が期待して平和を広めるための広島記念の使用方法の強さに驚かされました。それは本当に私は常に覚えているし、私の短い訪問から、大切ものだった。 




私の本格的な希望と確かに血と信仰と理解について、基づいて世界の過去の大虐殺からより良い世界が生まれるこの厳粛な機会から世界が人間の尊厳、自由、寛容、正義に彼の最も大切な願いの成就に専用、全人類の希望です。