土民は皇軍を心から迎へた。空にはHIDOEP ASIA RAJA(アジア萬歳)のアドバルーンが悠々と浮かんでゐた空は涯しなくひろかつた。大航海時代から数世紀にわたるオランダの植民地支配下では、現地の非オランダ系住民はほとんど無権利状態に置かれ、奴隷同然の扱いを受けていました。そうした中で、彼らの間には、かつてジャワ島東部を支配していたクディリ王国のジャヤバヤ王(ジョヨボヨ王とも。在位1135-57年)が、晩年、詩人のムプ=セダーとムプ=パヌルに命じて書かせた叙事詩『バラッダユダ』の次のような“予言”を心のよりどころとする人も少なくありませんでした。
インドネシアには「ジョヨボヨ王の予言」という伝承がある。
12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が宮廷詩人に命じて書き残したもので、インドネシアを苦しめる“白い人びと”を、北からやってきた“黄色い人びと”が追い出してくれるという「予言」です。「我が王国は、どこからか現れる白い人びとに何百年も支配されるだろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。しかしやがて、北の方から黄色い人びとが攻めてきて、白い人びとを追い出してくれる。黄色い人びとは我が王国を支配するが、それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく…」この「予言」はオランダ植民地時代に民衆の間に広まり、深く信じられるようになった。
17世紀初頭から続く“白い人びと”の支配に苦しめられていた民衆は、解放者の出現を待ち望んでいたのだ。一部で独立を求める運動も起きたが、オランダはこれを厳しく弾圧、インドネシア人の集会を禁止し、道ばたで3人以上が話しただけで処罰するほどだった。このオランダの支配を打ち破ったのが、北からやってきた“黄色い人びと”、すなわち日本軍だった。
オランダ 330年植民地支配
1602年、インドネシアのジャワに東インド会社を設立した。オランダはそこに貿易、軍事、外交、行政の独立件を与え、諸外国と戦争して積極的にアジアへ進出を開始しました。オランダはタダ同然で安く手に入れた香料をジャワ島やモルッカ諸島からアムステルダムに運び、莫大な利益をあげました。オランダは、アフリカ及びインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々に奪い取り、17世紀中ごろには、現在のインドネシアを中心とした地域に確固たる拠点を築きました。
これ以降、330年もの長期にわたって、オランダのインドネシア植民地支配が続きます。オランダの統治方法はまったくひどいものだった。
原住民には教育を行なず、読み書きができないように放置するという愚民政策をとりました。徹底した分断政策はオランダ支配の特徴で、集会や団体行動を禁止した。320の各部族語を一つの標準語に統一することを許さず、インドネシア人としての民族意識を奪い、原住民はプランテーションの奴隷としてこき使われました。
オランダは支配したインドネシアの土地で稲作を営む住民にコーヒー、サトウキビ、藍、茶、肉桂などを強制的に栽培させた。その結果、食糧を自給できなくなった住民に、オランダは食料を高く売りつけることで借金を負わせ、なけなしの財産・土地まで巻き上げていきました。
その搾取の仕方は19世紀に入ってからますます巧妙となり、インドネシアからの収益は実にオランダの国家予算の三分の一を占めるようになったのです。このオランダの「強制栽培制度」によって、インドネシアは大飢饉となり、人口の9割が餓死したといわれます。
巧妙だったのは自分たちは表にたたず間接統治を行ったことである。統治は地元の代表である土候に、流通は華僑(現地の支那人)にやらせます。搾取によるインドネシア人の憎悪は華僑や土候に向けさせ、自分達はおいしい汁だけをたっぷりと吸ったわけだ。しかも表向きは東インド会社という会社組織で、国家は前面に出ないという用心深さでした。
また、オランダは混血政策を取り、インドネシア人との混血児を中間階級にし、民族の分断を図った。これはポルトガルが東ティモールで、スペインが中南米でやったのと同じ手口である。混血児といっても白人の女が現地の男と結婚して子供を生むなどということは一切なく、白人の男が現地の女を強姦するというパターンだけでした。
この政策の裏には白人の傲慢と人種差別があったのは言うまでもありません。劣等民族であるお前らに、我々が種を授けてやる、という思い上がりだった。こうしたハーフカースト(白人とアジア人の混血児)は、教育を施され、宗主国のために原住民を監督、酷使する役割を与えられます。
ンドネシア人はオランダ人に家畜よりひどい存在として扱われていた。
スマトラのたばこ農場の様子を記録した「レムレフ報告書」には現地人を米国の黒人奴隷と同じように扱い、「鞭打ち、平手打ちは当たり前だった」と記録されている。ある農場では「粗相をした二人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部に唐辛子粉をすりこんで木の杭に縛りつけて見せしめにした」といいます。また、刑務所で過酷な労役を課せられている因人が、オランダ人の農場より食べ物がいいからと出所を拒んだといった例も伝えられている。このオランダによる恐るべき搾取にピリオドを打ったのは1941年の大東亜戦争である。
日本の帝国の占領。
1942年3月1日、ジャワ島に上陸した今村均中将率いる第16軍は、僅か9日間でオランダ軍を制圧、“白い人びと”を追い出してくれたのである。インドネシア民衆は「ジョヨボヨ王の予言が実現した」と歓喜し、各地でメラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)を振って日本軍を迎え入れた。その後、仁将として名高い今村中将による軍政統治が行われるが、それは、“白い人びと”の支配とは明らかに異なっていた。
日本軍はまず、流刑されていたスカルノやハッタら独立運動の指導者を解放し、迫害されていたイスラム教の存在を認めて宗教活動を自由とした。オランダによる愚民政策を廃し、民衆の教育制度を充実し、農業指導や軍事指導にも努めた。それまで公用語として強制されていたオランダ語と英語を廃し、多くの言語に分かれていたインドネシアに共通語を定めて、民衆の意思統一を図ることにも力を入れた。
そして1945年8月15日、三年半にわたる“黄色い人びと”の支配は終わった。800年前にジョヨボヨ王が予言した通り、トウモロコシが育つまでと同じくらいの短い期間だった。
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